教えのやさしい解説

大白法 463号
 
変毒為薬(へんどくいやく)
 変毒為薬は「毒を変じて薬(くすり)と為(な)す」と読みます。毒をそのまま薬に変えるという妙法の功徳を譬(たと)えたものです。
 竜樹(りゅうじゅ)菩薩の『大智度論(だいちどろん)』に、
 「譬へば大薬師の能(よ)く毒を変じて薬と為すが如し」
また、
 「小薬師(しょうやくし)は薬を以(もっ)て病(やまい)を治(じ)す、大医(だいい)は大毒をもって大重病を治す」
等とあるように、本来、薬と毒は相反(あいはん)する関係にありますが、勝れた薬師は毒を調合(ちょうごう)して薬として作用(さよう)させ、病を治療(ちりょう)します。竜樹菩薩は、衆生の生命の濁(にご)りや迷(まよ)い、欲望などの煩悩(ぼんのう)を毒に譬えて、これらの煩悩を断じないまま悟(さと)りの境界に至らしめるという『法華経』の功徳を讃(たた)えたのです。
 爾前(にぜん)諸経では、菩提(ぼだい)を得(え)るためには無量劫(むりょうこう)という長い期間を要(よう)して修行し、そして煩悩を断じ尽(つ)くさなければならないと説きました。しかし、『法華経』に至って一念三千の法門が説き出(いだ)されたことにより、煩悩と菩提は共(とも)に衆生の十界互具(じっかいごぐ)に具(そな)わる生命であり、本(もと)より相即(そうそく)して不二(ふに)の関係であることが開顕(かいけん)されたのです。
 すなわち、名医は毒を用(もち)いて強力な薬を作りますが、それと同様に釈尊は、煩悩という毒を断ずるのではなく、むしろそれらを用いてそのまま成仏せしめるという妙法の良薬(りょうやく)を衆生に与(あた)えられました。
 その妙法の肝要(かんよう)を釈尊より受けられた日蓮大聖人は、『始聞仏乗義(しもんぶつ)じょうぎ)』に、
 「毒と云(い)ふは何物(なにもの)ぞ、我等が煩悩・業(ごう)・苦(く)の三道なり。薬とは何物ぞ、法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)なり。『能以毒為薬(のういどくいやく)』とは何物ぞ、三道を変(へん)じて三徳と為(な)すのみ。天台云はく『妙は不可思議に名づく』等云云。又云はく『夫(それ)一心乃至(ないし)不可思議境の意(い)此に在(あ)り』等云云。即身成仏と申すは此是(これ)なり」(平成新編御書 一二〇八)
と仰せられているように、一往(いちおう)竜樹、天台等の釈文(しゃくもん)を用いつつ、煩悩・業・苦の三道(毒)が法身・般若・解脱の三徳(薬)と転じる妙法の即身成仏の功徳を明かされています。
 つまり、『四条金吾殿御返事』に、
 「欲(よく)をもはなれずして仏になり候ひける道(みち)の候ひけるぞ」(平成新編御書 一二八七)
とあるように、迷いや欲望という毒を断ぜずに、凡夫そのままの当体において成仏するということです。
 その行法とは、『当体義抄(とうたいぎしょう)』に、
 「正直に方便を捨て但(ただ)法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて」(平成新編御書 六九四)
とあるように、正直に邪法邪師の邪義を捨てて、『法華経』の肝要である文底下種の南無妙法蓮華経の御本尊を受持することです。
 私たちは、日々の信心生活において、常に「変毒為薬」の功徳を御本尊からいただいていることを自覚し、歓喜(かんき)勇躍(ゆうやく)して信心修行に精進することが大切です。